☆読書感想 さいはての中国

著  安田峰俊  ルポライター

2018

 

見目麗しい外見の中国の中で、時に醜く、汚い内面を変わり種として紹介する一冊。

 

最近読んだ中国に関する図書は「チャイナ・イノベーション」という野村総研の中国人が書いた本だった。

あの本では正しく絶好調の中国企業を紹介していたわけだが、国とは企業だけが全てではない。

この本はそうした外からは見えない汚い部分が良く描かれていた。

 

印象に残ったのは2つ。

 

まず、中国に限った話ではないが、ネトゲ依存集団の話からだった。

地名とネットスラングから三和ゴッドなどという呼び方が付いていたが、いわゆる廃人だ。

 

中国では若い世代でも日本と大きく異なる環境がある。

それは農地から都市への出稼ぎだ。

このとき、子供は祖父母に預けるという形で、生計を立てる人間が多数いる。

子供の時、親がすぐそばにいないという環境はどう考えても悪影響でしかない。

祖父母となると自分の生活で手一杯だろう。

たとえ仕送りがあったとしても、面倒を見切れるわけがない。

 

すると、子供に良好な生活知識が身につかず、荒れた人間が出来上がるのだ。

 

 

もう一つは、習近平に対する個人崇拝の一面だ。

ちょっと前に習近平独裁が可能な憲法改正を彼の国は行ったわけだが、毛沢東時代の文化大革命の反省ができているとは到底思えない。

 

習近平が、青年時代を過ごした村を観光地化して、共産党の教育訓練を行うというのは、完全に個人の権力集中である。

この国は習近平によって成り立つという時代が、あと20年は続くのではないだろうか?

 

その後の政治競争は熾烈になり、国がバラバラになるだろう。

楽しみである。

 

しかし、日本もそう悠長に構えていられない。

現状は中国の思うがままにさせられている。

このまま引き下がってはいけない。

奴らの欠点を逃さず、世界と連携するのだ。

 

 

あ、もう一つ気になったことがあった。

カンボジアだ。

 

カンボジアは今や第2の中国である。有償借款ではあるが、とんでもない次元の資金援助を中国は行なっている。

カンボジアはそれに甘んじ、日本と積み上げてきた友好関係やその他の援助も忘れ去ってしまった。

金に目が絡んでいるし、賄賂だらけなのも原因なのだが、この国も中国の破綻と同時に地獄を見るだろう。

ポルポトによる虐殺地獄を今の若者は覚えていないという。

要するにアホはどんなに時間が経ってもアホなのだ。

 

そんな国はどうなっても構わないと思う。

手遅れだからだ。

中国とともに死に行く運命にあるだろう。

ご愁傷様。

 

さて、日本では中国のイメージは、まるで昔のバブルという感覚だが、はたしてそんなに良い状態なのだろうか?

少なくとも中国の文化というのは日本やその他先進国にくらべて、極端に短い。

自分たちが、世界のトップだと豪語しているが、そこに立つ資格はないのである。

 

中国が、共産党というくだらない思想のもとで生きる限り、未来はない。

あるべき姿でない中国はいずれ崩壊する。

 

我々日本もこのような国でないようあるべき姿になりたいものである。

 

 

 

 

☆読書感想 失敗の本質

著  戸部良一 他5名共著  戦史研究家

1991 (左記は文庫版。原典は1984)

 

大東亜戦争をメインとした日本軍の失敗をまとめ綴った一冊。

分析した戦闘は

ノモンハン事件

ミッドウェー海戦

ガダルカナル陸戦

インパール作戦

レイテ沖海戦

沖縄戦

以上の6つ。

 

今まで大東亜戦争時代の詳細を語った本は読んでこなかった。70年前の戦争は今の時代の出来事とは関係ないのではないかと感じていたからだ。

しかし、この本を読むと時代など関係なく、日本人の特性をよく理解することができ、これを現代の企業戦争に活かすことができるはずだと感じた。

 

日本が戦いに負けるのは、資源や経済力を原因として捉えれば、当然のことではあるが、実際には全ての戦闘で負けているわけではない。

また、負け戦として戦った作戦もあったが、中には如何にも冷静さを欠き、勝てるべく戦争を流すこともあったわけだ。

この本で、語っているのはそうしたあるべき姿を逸した戦いである。

 

本の総括では、6つの戦いで共通していて、印象に残るのは3つある。

 

 

1つは日本人は帰納的思考を行うということ。

つまり、過去の経験から物事を考え出すということである。

取り扱う現在の事象が、過去の延長線上にある場合には有効な思考法であるが、全く前提がなかったり、極めて特異的現象には歯が立たない。

ただ、ここで注意すべきは経験に対する分析力や振り返りがないという点である。

 

日本の戦闘では、米軍よりも情報軽視が多く見られる。

例えばミッドウェーなどでは戦闘前から作戦の詳細を相手に知られてしまっている。

また、インパール作戦も英軍に斥候(監視員)や空挺哨戒に見破られている。

さらに、自己分析ができず、ガダルカナルインパールなど劣勢時の兵力逐次投入をして損害を肥大化している。

 

すなわち、自分たちの成功体験に基づく戦法しか取れない。

これらは陸軍が日露戦争時の成功、海軍が日本海海戦の成功に引きづられているためだ。

突撃と艦隊決戦の思考から抜け出せず、そこから発展することがなかった。

 

然るに現代の企業も同様で、過去の栄光に囚われ、進化することができていない。

日本の企業は低賃金の時代からポテンシャルを発揮し、経済成長を成し遂げた。

だが、それが終わった2,30年、画期的、革命的変身を遂げることはなかった。

過去から学べない愚かな民族だ。

 

 

2つ目は、人情組織的集団であること。

まず、どんなに重要な事柄であろうが論理的結論でなく感情的結論が最後に来ている。

ノモンハン事件及びインパール作戦の発生や即時中止が行えない状況というのは、それが原因である。

自分の懇意にしている人間の発言や思考を冷静に見ることができず、鵜呑みにしてしまう。

これは日本人の性格をよく表している。

連体感や空気を読めという言葉を日本人は好むわけだが、戦争という命のやり取りであっても、それは守られるべきものとして固執する。

これは論理的でなく、欠陥そのものである。

 

また、失敗を犯したものに対する刑罰が余りにも疎かである。

上記戦闘の失敗においても、その責任を本来取るべき人間に取らせていない。

それはつまり、結果は重要視せず、途中のプロセスや姿勢を重要視するということだ。

これも論理的ではない。

戦い方がどれだけ良くても、負けてしまえば、水の泡である。戦争においては拠点を確保できなければ途中の損害は無駄に終わってしまう。

負けたという事実は断固として受け入れさせるべき結果なのだ。

 

今の時代、失敗したものに対する懲戒免職はある程度形になっているだろう。

(私が務めていたある会社では犯罪を犯した人間を辞めさせず、異動させる形で残したが)

ただ、欧米に比べるとなんとも冷徹にあるべき組織にできていないと感じられる。

 

 

最後は、集団的性格を持つにもかかわらず、上意下達あるいは下意上達ができない点だ。

これだけ空気を重要視する組織であっても、ノモンハン事件関東軍の独断、レイテ沖海戦における栗田艦隊の反転や沖縄戦における第三二軍と大本営の齟齬など思考の共通化ができていない。

しかも、大本営の指示が曖昧であること、すなわち空気を読ませるという中途半端な強制が、結果的に意図が伝わらない現象が起きている。

 

これらは誰それが自分と同じ考えだという思い込みや自分に都合の良い勝手な解釈を引き起こす悪因である。

非常に不合理な集団組織だ。

本来あるべきなのは、そもそもそれぞれの思考は異なるものであるのだから擦り合わせ、話し合いを継続し、より思考を共有化しようとする習慣である。

それが日本にはなかった。

 

現代でも同様だろう。

日本人は空気を読むあまり、ディベートの機会を失っている。

それは教育からしてそうであり、直す努力をすべきだ。

より優れた作戦はディベートの継続からしか生まれない。

 

 

さて、以上感じた点や直すべき点を述べたが、果たして自分はどうだろう。

多分、ここにあげた日本人的性格を持つ代表的人間な気がする。

やはり変わるためにこのような経験を本から得て、自分の糧にすべきだろう。

「人のふり見て我がふり直せ」である。

 

 

☆読書感想 カラーでよみがえる日本軍の戦い

著  日本戦士研究会

2018

 

大東亜戦争における日本軍の歴史をカラー復元をした写真で紹介する一冊。

 

私は今まで大東亜戦争と太平洋戦争と2種類の呼び方があることに疑問を抱いていた。

どちらかというと後者の言葉を使っていた。

それは多分授業や教科書の中で、前者の言葉を使うことがなかったからだろう。

しかし、当時の日本の戦いは太平洋周辺にとどまらない東アジア周辺の戦争の呼称としては大東亜戦争の方が正しいと感じる。

 

太平洋戦争という呼び名は戦後の欧米からの教育制度改革により始まったらしい。非常に腹立たしい。

 

この本を読んで日本の戦いは単なる帝国の拡大を望んで行なったものでないとわかる。

それはこの戦争がベトナム、インド、ミャンマーなど、日本の戦いが呼び起こした世界革命だということだ。

 

当時、欧米による植民地支配は酷いものだった。

彼らの力は弱いものたちを人間というより畜産物とみなしていた。

その状況を見ていた日本はその光景が脅威だった。

中国やインドという広大な土地と人民が、その何十分の一の人間に支配されるというのはおぞましいことだろう。

日本も戦わなければその一部となっていただろう。

 

だが、日本人の心はそれを許さなかった。

当時は人権主義活動も活発になり、人が平等であるべきだという思想は非常に強くなっていただろう。

それに数百年も他の国家からの侵略も受けず、自国なりの文化や伝統が育った環境もある。

それを守りたいという気持ちもどんな国にも負けず持っていたと思う。

 

 

戦力差を考慮すれば当然のごとく無謀な戦いだった。

日本の技術力は零戦に代表されるような航空戦闘力の強さを示したが、いかんせん資源が足りなかった。

ない資源を振り絞って、当時世界最大の戦艦をいくつも作ったが、圧倒的な物量差には敵わなかった。

 

日本は戦争に敗けた。

しかし、欧米列強の思想には勝ったのだ。

植民地での国民解放軍、独立軍の教育や共闘をしたことで、戦争敗北後も東アジアは次々と独立した。

それが今に繋がっているのだ。

これほど素晴らしい結果はない。

 

この本に出てくる人間の顔は今の日本の若者の顔となんら変わらない。

その笑顔も肉体も何も変わらないのだ。

違いがあるとすれば、国を背負って戦う、その精神だ。

 

 

現代は軍事力ではなく、経済力がものをいう時代だが、この世界大戦と呼ぶべきフィールドで戦う我々の精神は国を背負っているだろうか?

欧米に負けないという気持ちは常に持ち、我々だからできる戦いを見せ、後の時代のために戦っていこう。

 

国のために戦った全ての人に感謝を込めて、御礼を申し上げる。

ありがとう

☆読書感想 なんでその価格で売れちゃうの?

著  永井高尚  マーケティングコンサルタント

2018

 

マーケティングにおける価格戦略についてまとめた一冊。

価格を下げるという行為は身を切る思いで行うべきことらしい。

 

物の値段というのは競争が激しい業界ほど、下がってしまう。

例えば、牛丼などは並み盛り280ぐらいが現在の基準だろうか。

他のファミレスやラーメンといった業界に比べると異常な安さであろう。

 

一度値段を下げると再度あげることがなかなかできない。

客は現在の値段を基準とする傾向があるので、損を避けようとする心理から値上げに対し、素直に受け入れられないのだ。

 

大塚家具は売り尽くしセールを何度も実施した。

これにより、高級価格でも買ってくれるいわゆる富裕層であった当社の顧客層が、離れてしまった。

 

これは当然の報いだろう。

高い価格で販売しているからこそ、そのものに価値があると感じていたのに、安値で売り出したら、その前に買った人が自分の物の価値を疑ってしまう。

顧客を裏切る行為だ。

 

価格は厳正にかつ計画的に決めなければならない。

 

ところでこの本で意外な雑学を得た。

それは1から3の三つ星で決めるミシュランガイドについてだ。

今まで、ミシュランというのは地名か何かだと思っていたが、あのタイヤメーカーのミシュランだと初めて知った。

ミシュランガイドミシュランタイヤの販売促進活動だったのだ。

 

今から100年以上前のパリ万博で、当時車が普及しだした時代、ミシュランはさらなる自動車の普及のために無料でこのガイドを配った。

自動車が売れればタイヤも売れる。

今や名だたる料理店に対する評価軸になっている当ガイドも最初は販促だったわけである。

 

無料という言葉で思い浮かぶのは「タダより怖いものはない」という格言だ。

この本ではある無料に関するある実験結果を載せていた。

ある2種類のチョコがある。

一つは高級(1500円とする)、もう一つは庶民的価格(150円とする)のものだ。

はじめ、両方とも100円値下げをし、販売した。

すると高級の方がよく売れた。

次に150円値引きした。(後者はタダになる)

すると庶民的な方がよく売れた。

 

同じ値引き額でもタダになると人は目が眩んでしまう。

人は損をしたくない生き物だということがよくわかる。

 

 

話を変えるが、最近、キャッシュレス制度について、話が盛り上がっている。

paypayの100億円還元キャンペーンはすごく魅力的だった。

購入額の20%還元は今までに例を見ない率だ。

ネットを見ているとなかなか賢い買い方をしている人も居たが、逆に何とかして得をしたいがために高い買い物をあえてする人もいた。

 

私は今回波に乗らなかったが、無理してでも高い買い物はしなくて良いのではないかと思う。

というより、どうしても欲しいというものがなくなってきたのかもしれない。

いろんな最新技術は人の目を輝かせるが、最近になってその光も霞んできたのではないか?

ものを欲し、それを買うという行為で購買欲を満たすのはキリがない。

もっと本質的な生活向上ができたら、残りの人生がさらに有意義になる。

 

焦らずに生きていこう。

 

☆読書感想 雑談力

著  百田直樹  小説家

2016

 

永遠の0」や「海賊と呼ばれた男」で有名な元放送作家、現小説家の一冊。

 

著者はこの本の中で様々なネタ話をしてくれている。

どれも面白い内容なのだが、面白いと感じるのはそうさせる技法を用いているからだと言う。

 

本のテーマは雑談なわけだが、雑談と言うからには通常、話し方を注意するよう考えがちだ。

しかし、著者は話し手のプロというより書き手のプロである。

 

世の中全てがそうだとは言えないが、やはり、文章の構成が上手い方は自然と話の構成も上手くなるのだろう。

 

話の構成で非常に重要なのはオチである。

 

例えば、ある漁師の話についてこう取り上げている。

著者がテレビ放送作家の時代、漁師にインタビューをした。

初めインタビュー前は、面白いオチの話をしてくれた。

不漁の際、ある海女が、普段よりも深く潜って貝を採ろうとしたとき、他の人の手も偶然、同じ貝を掴み、必死の覚悟で海面に上がるとそのもう一人が海女の娘だった…

しかし、実際の撮影で話をしてもらうとオチの家族だった海女という説明から入ってしまった。

これは話の構成が考えられていなければ、話自体を全てぶち壊しにしてしまうという良い例である。

 

著者は話の大前提として、起承転結の話をしていた。

これは子供でも知っている言葉である。

それは書き言葉だけではなく、話し言葉に通用する。

 

また話をするときは人が聞きたい話をするのではなく、自分がしたい話をしろと言っている。

これはよくオタクにありがちなのだが、どこでも聞くようなありふれた話よりも希少性のある、その人しか知らない話の方が盛り上がるということだ。

さらに話をしていると別の考えが浮かぶことがある。思考はさらなる思考を生み出すので、考えが繰り返されるほど、良い考えが固まる。

 

振り返って自分の話し方を思い出すと、大体話している最中にどうしようか考え出すことが多い。

大抵考えている最中に話が止まってしまうので、場を白けさせてしまうのだ。

 

必要なのは起承転結の構成である。

これは慣れが必要だ。

一朝一夕で押し寄せる波のような話し方に変わるはずはない。

でも出来る人は羨ましい。

 

しかし、ただ話をしまくる人間は社会に取って害悪である。

それは、誰も聞く気にならないし、単なる自己満足だ。

これは著者も述べている。

話したいことは構成を考え、テーマをブレさせないことも重要な点である。

忘れてはならない。

 

かくいう私も全くもって話ができないとか訳ではない。

退職する前、会社の朝礼で会社の方針、今の自分の部署の方針について、問題提起した。

その際はなぜそのような状況に至り、その発言をするのか、どのように伝えるかを前々からよく考えていた。

結果、話はよく伝わり、上司達を動かすことができた。

あれは準備と会社に対する怒りというかダメだという強い意志があったから、みんなに届いたのだろう。

あのような感覚を忘れずに発言をしていこう。

 

てか、早く転職しよう。

 

 

☆読書感想 現代語訳 論語と算盤

著  渋沢栄一  江戸-大正時代 実業家

訳  守屋淳  中国古典研究家

 

東京証券取引所第一国立銀行王子製紙日本製紙サッポロビール太平洋セメント東急電鉄東京海上火災保険など現在も続く主要企業や組織の設立に関わった日本を代表する実業家の一冊。

 

この本は現代語訳となっているため、まったく違和感なく読み切ることができた。

翻訳者に感謝したい。

 

内容は著者が70歳になった頃に書かれたもので、彼の生き方や当時の日本の商業のあり方を若人に講演した際の話がまとめられている。

 

当時の日本は、明治維新から50年ほど過ぎた頃であり、日露戦争が終わり欧米列強をさらに強く意識していた。

そんな中、渋沢は当時非常に貴重な海外渡航に勤しんでおり、日本の士農工商の中で、商業の遅れと経済の重要性を誰よりも感じ取っていた。

 

この本では、商業に対する姿勢として、渋沢本人が中国史の研究家ということもあってか、孔子論語を主体としている。

それ以外にも孟子朱子といった儒学の考え方こそが人間のあるべき姿だと説いている。

 

読んでいて驚きに満ちていたのは、約100年前の人間の書いたことに関わらず、今日の問題に通ずるところがあった点だ。

それは大きく分けると3点ある。

 

 

一つ目は女性の社会進出についてだ。

当時は江戸時代の名残として、父親第一、領主第一という男尊女卑が強烈に残っている時代であった。

江戸時代は徳川家が300年近く継続させた素晴らしい時代でもあるが、現在の感覚からすれば、女性の社会に対する役割は家事や農業に縛られ、苦しい環境にあったであろう。

 

しかし、欧米においては同時期にすでに社会で活躍する環境はその姿を見せており、渋沢の発言は男子に偏った日本の視点を変えさせたいという意識が感じられる。

残念ながら、100年経った今でも日本の考え方は変わったとは呼べないが。

 

 

二つ目は、利益にこだわってはならないという点だ。

これは先日読んだPayPal創業者のピーター・ティール氏とまったく変わらない意見である。

 

株主に還元することを目的に持ったとしても、人(青年)の本来あるべき姿は論語における「仁義礼智信」にあると説いている。

 

皆が利益に拘るというのは自分が利益を得るために他者から奪うことになる。それは社会のあり方としてふさわしくないということだ。

不毛な争い合いは最終的に自分の身を削ることになる。

 

だが、渋沢の場合、まったく利益を考えないというのもあるべき姿ではないと説いている。

宋の時代の自己利益を無視した社会が、国を滅ぼすことになった原因であることを示した。

つまり、利益は士気や成長に必要不可欠であり、肯定していることにもなる。

 

結局はそのどちらも頭に入れ、バランスを意識することだと言っている。

企業には利益を上げると同時に社会における道徳を満たす存在であること。

これは現代社会の企業でも考えるべきことである。

 

 

三つ目は、仕事に対する姿勢だ。

渋沢は仕事を趣味としておくことが、成功の鍵だとしている。

それは遊ぶということではない。単にやるというだけでは意思ある人間ではなく、ただの人の形をした肉の塊になってしまう。

だから、人であるために仕事を趣味とし、努力することが大事だ。

 

私も個人的にこの意見に強く共感を覚える。

会社を辞めたのはまさしく、自分が肉の塊、ただのマシーンになっていたからである。

仕事を好きにならなければ、自分の人生は虚しいものなってしまうだろう。

 

 

以上のように渋沢の着眼点やバランス感覚は今の事業家より多分に優っていると感じられた。

太平洋戦争も第二次、第三次産業革命も経験していない人間が書いているのである。

恐るべき視野の持ち主である。

 

やはり人はこの本に限らず、論語など語り継がれる過去の遺物に尊敬と感謝の念を持って、これを勉強すべきであろう。

100年前の書物から学ぶことができ、何千年も前の書物からも学ぶことができるのは、人間の数ある能力の中で最も偉大な能力だ。

 

これからも歴史を教訓として学んでいきたい。

☆読書感想 インターネット・ゲーム依存症 ネトゲからスマホまで

著  岡田尊司  クリニック院長

2014

 

インターネット・ゲームに関する研究や将来を紹介した本。

本を手に取った時には気づかなかったが、著者は以前読んだ「生きるのが面倒くさい人」を執筆した方。

 

結論から言えば、インターネット・ゲーム、すなわちオンラインゲームやネトゲは麻薬と同じ効果を持つということだ。

 

これは近年の研究結果から示されている。

ゲームをやることにより、麻薬と同様に快楽を感じさせるドーパミンが大量にでる。

その後、この状況が続くことでドーパミン受容体が減少し、快楽を感じなくなってしまう。

するとゲームをやっている本人は快楽を感じるために、さらにゲームをするようになるということだ。

 

このような状態になると仕事や勉学に影響が出てしまい、ゲームが日常のほとんどを支配するようになる。

 

これはゲームをやる環境も大きく影響している。

00年代前半ではそれまでになかったオンラインゲームが流行りだした。

FF11など、人気コンテンツでもオンライン要素を取り入れ、大いに盛り上がりを見せた。

ゲーマーたちはそれまで個人の習慣に基づいて、ゲームを続けてきたわけだが、このオンラインゲームでは仲間とともにゲームをすることに意味が生まれたわけだ。

ゲーマーの大半は大学生や社会人などの成人で、彼らは仕事や学校での生活があるため、自然と帰宅後の遅い時間がアクティブ時間となった。

より強くなりたい、仲間との絆を維持したいゲーマーたちはその状況にのめり込み、彼らの中で、生活環境を崩してしまうものが現れた。

 

私自身は当時、オンラインゲームができる環境にはなかったため、所謂MMORPGには触れなかったわけだが、もし触れていたら、それにのめり込み、昼夜逆転の恐ろしい生活変化を起こしてしまったかもしれない。

それほどゲームには人を呑み込ませる魔力がある。

 

現在はソーシャルゲームが主流で、このようなオンラインゲームとはまた違った状況が生まれている。

誰もが手軽に時間場所を問わずゲームができる環境にある。

 

我々が子供の頃はこのような素晴らしい環境にはなかったわけだが、今の子供は幾らでも遊べる環境にある。

これは恐るべき事態である。

 

然るに親は子供にゲーム機やスマホを簡単に与えてしまわないよう注意しなければならない。

のめり込んで脳が破壊され、依存システムが出来上がる前に対処しなければならない。

これはゲームの進化とともに生きてきた我々の世代の義務である。

 

ただ、単純に禁止させるだけでは反感を覚えてしまうだろう。

明確な理由を子供に説明するのはなかなか難しい。

周りの友達はやっているのにという理由に対し、どのように答えてあげるべきなのだろうか。

 

私であれば、この本を読ませるだろう。

ゲームをやり続け、人生を破壊してしまうことがあるというのは、実際に体験させるわけにはいかないので、何らかの形でその症例を見せるといいと思う。

覚せい剤大麻など、薬物に関してはこのような教育が整っている。

ゲームはまだまだそのような危険視が足りていないので、今後は広がっていくのではなかろうか。

 

 

ここまでインターネット・ゲームについての話をまとめたが、ゲームに限らず、新しい技術や娯楽というのは人を惹きつける魅力がある。

これは老若男女、誰についても言えることだが、何かにのめり込むというのは素晴らしいと呼べる反面、やり過ぎてしまわないよう注意すべきである。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉の通り、何事も程々に抑えることが必要である。

それには物事に対する深い知識と強固な意思を持つことが大切である。

 

子供の頃からゲーム好きだった私もこの本に出てくるような悲しき人間にならないよう注意して生活をしたいと思う。